拝復 十八日附お手紙落手しました、どうもたびたび恐入ます すつかり秋になりました 毎日々々雨 昨夜はまた大風にて十町ばかり先では一軒家が倒れました 今朝からもずつと雨でしたが一時間ばかり前から急に晴れてカラツトした日が射してをります これからその倒れた家を散歩旁々(かたがた)見に行くつもりでゐます 陸軍の道路政策とかで人道車道と分けられた田圃の中を走つてゐる立派な道路を、カランコロンと十丁ばかり行くとその家が見られるといふわけです それはその道路に沿つて建つてゐる酒屋なんださうですが、今此の日射しを受けて倒れてゐる多分はグサグサに腐つた家が、その店の中では瓶詰なぞがゴチャゴチャと冷たく光つてゐよう有樣なぞ、思つてみても大變な興味が湧きます それを片附けてゐるその家の人達や、通りがゝりにジロリと見て通つてゆく人々等、僕はさういふものへの興味――興味といふよりは寧ろ一種の愛著ですが、その愛著をどう説明していいか分りません カラリと晴れた空の前のその倒れた家は、多分澤山のファンテジイを與へてくれることでせう 尤もさういふ喜びは、極く短時間のもので、おまけにめつたに遭遇することが出來ませんから、さういふ喜びの蒐集が何々蒐集と名前の付くものとはなりませんけれども、もしそれが名前のつくものとなる程のものであつたら、ホフマンもゴーゴリもチャップリンも、無用の長物になるかも知れないと思ひます――かう書けば少々オツタマゲタやうにも見えませうが、僕としてからが可なり嚴肅な話で、たゞその「愛著」の特性を自分でもよく何と云ふべきかを知らないだけが、オツタマゲタ感じを與へることともなるのだと思ひます

(・・・以下略・・・)

 

 

(1934年 安原 喜弘宛書簡より)