(藝術の動機)
 今晩僕は非常に豐な氣持になることが出來ました。で僕はそれについて、あんたに語りませう。

 「我に職を與へよ」と先達あんたが云ひました。さうです、その言葉が今時の世の中の倦怠をよく表はしてゐます。――僕は今その倦怠を心底抜け出ることが出來た。

 今日中村屋で、一番本當の意味で流れてゐなかつたのはあんたです。あんたは一番根のある人なのだが、一番純粹に根のある人といふものはとかく損得の感情に乏しく、正直で氣が好すぎて、慾氣はなしに自分自身ならざることを平氣でやれるのです。慾氣がないので實感のないことに平氣で慣れるのです。――が、それまでは何でもない。寧ろ慾氣のないことなど賞讚すべきだ。
 然るに、恐いのは、遂に自分を見失ふといふことです。見失つた人は意味(言葉)が解せなくなる。そして遂に、たとへばあんたのやうな一番根のある人が、一番根のない時間を過ごし、そして温(おとな)しくも自分は根がないなと何時の間にやら信ずることです。そしてもう何もかもが判然掴めなくなる。――その時です。「我に職を與へよ」だの「何をすればよいか」だのと考へ出すのは。
 それではそんなになることを防ぐにはどうすればよいか。
 それは、純粹な人はともかく「流す」ことが好きなものだが、それを出來るだけ喰止めればよい。もつとよくいへば、例へば外出なら外出を制限するといふより寧ろ、むやみに外出したくならない氣持、つまり自分自身であればよい、(だいたいよく外出する人は、その本心では外出したくながる側の人だといふことはお分りでせうね?)それにはただ沈黙が大事なのです。自分であることがね。つまり強くなければなりません。
 さうしさへすれば、きつとすべきことが判然して來ます。――少し他の話ですが、あんたのやうな純粹な人が、自分自身であり得たら、一番樂に何かが表現出來るのです。何故といつて表現とは普通に考へるやうに描寫することでは斷じてない。表現とは自分自身であることの褒賞(ほうしょう)であつて、人が好いことに引きずられて外物本位に生きてゐると、人は何か現はしたいなと思ふや所謂描寫を豫想することになるのです。その結果意味のない風景配列をするのです。
 自分自身でおありなさい。弱氣のために喋舌つたり動いたりすることを斷じておやめなさい。斷じてやめようと願ひなさい。そしてそれをほんの一時間でもつづけて御覽なさい。すればそのうちきつと何か自分のアプリオリといふか何かが働きだして、歌ふことが出來ます。
 寫に、藝術とは、人が、自己の弱みと戰ふことです。その戰ふ力が基準となつて、諸物に名辭なりイメッヂなりを與へる力です。

 それにしても、詩人の素質を立派にもつたあんたが、そのことを自識してゐず、自分は或る方面から非常に善い存在だがなあと薄々分りながら、その存在を發揮することが出來ず、今はや隨分消極的な氣持になつてゐることは、惜しむべきです。――尤もそれでも、あんたの無意識は立派で、僕が悄氣(しょげ)てゐる時にも、あんたが一番純粹な根のある眼で眺めてゐました。
 僕は物が暗誦的に分らないので、全然分らないので、自分が流れると何もかも分らなくなるのです。けれども、僕は分らなくなつて悄氣た時、悄氣ます。人のやうに虚勢を張れません。そこで僕は底の底まで落ちて、神を掴むのです。
 そして世間といふものは、悄氣た人を避ける性質のものです。然るに藝術の士であるといふことは、虚偽が出來ないといふことではないか!
 そしてあんたは虚偽では決してないが、恐ろしく虚偽ではないが、自分を流してしまひます。そしてあんたの眞實を、嘗ては實現しませんでした。
 が、どうぞ、沈默で、意志に富み、(外物を)描寫しようといつた氣分からお逃れなさい。そしてどうぞあんたのその素質を實現なさい。
 打つも果てるも火花の命。
   千九百二十九年六月三日
                                       あんたに感謝する

                                             中原中也

  佐規子様                                         
  

 

 (1929年 小林佐規子宛書簡)